自分を癒すって、向き合うってどういうことなんでしょうね。
セラピーにコツ・・・のようなものがあるのでしょうか。
今日は、日ごろ、どんな風に私がセルフセラピーをしているのか
その様子をお伝えしたいと思います。
さて、先日歯医者に行きました。
私は、3か月に一回のペースで歯医者に行くのですが
そこでセルフインナーチャイルドセラピーが
はじまっちゃったのでその様子をお届けします。
その歯医者さんで
ケアしてもらっている時のお話です。
先生「では、口を開けてください~」
と言われたので
口を開けました。
その時に
「これぐらいでいいかな?」
「見やすいかな?」と思いました。
こうした
自動的に発せられる内なる声を
「セルフトーク」と言います。
「これぐらいでいいかな」
「見やすいかな」
ぐらいでしたら
まだいいですよね。
でも、
次に思ったことに
「あれ~」と気づくことがありました。
それは
「見やすいと思っているかな」
でした。
違和感を感じたので
セルフトークに耳を傾けてみました。
次に出てきたのは
「見やすいように口を開ける人だと思ってくれているかな」
でした。
ちょっと笑っちゃいました。
私、口の開け方で
評価されたがっているわ。
おかしくなりました。
でも、
考えてみると、
日常生活の中で
よくこういう思考パターンになっているなぁと
気付きました。
「ああ、私はなんて人のコトに気を使いすぎなんだ。」
と思いました。
「人に気を使いすぎ」
という表現はとても「一般化」された言葉です。
「一般化」された言葉を使うと
わかったような気になってしまいます。
言い換えると
わかったような気になって
深く考えなくていい
「使い勝手の良い言葉」です。
もしくは
「使い勝手をよくしちゃうこと」
を「一般化」というのですが。
「考え過ぎ」な性格
とか
「周りの目を気にしすぎ」
とかも
「一般化」された言葉ですね。
誰かと雑談をする上では
便利で使い勝手は良いですが
自分への理解を深める セラピー
においては、あまり役に立たない。
自分への理解を深めるときは
これとは逆のコトをします。
「一般化」ではなく、
「具体化」
です。
チャンクダウン とも言います。
まとめるのではなく
細かく分ける
分散する感じです。
散らかす感じ。
「見やすいように口を開ける人だと思ってくれているかな」
という発言から
「人に気を使い過ぎだ」
という結果を導き出すのではなく。
「見やすいように 口を開ける人だとおもってくれているかな」
と思ったときの様子を
細かく観察します。
そして
描写します。
または
他の言葉で言い換えたりします。
例えば
他の言葉で言い換えると
「助かるって思ってくれたかな」
「サポートできているかな」
というセリフが出てきました。
ああ、そうか、
私は、相手に「助かる」って思ってほしいんだなぁ。
もっと言うと
「助かることをしてくれる人」と見てもらいたいんだなぁ。
見てもらいたいっていうのは
「欲しい」
ということです。
私は、何をそんなに欲しがっているのでしょうか。
私が欲しがっているもの、
それは
「助かるよ」「助かったよ」 という言葉でした。
「すごいね」「えらいね」
もイメージしてみたのですが
ちょっと違いいました。
「助かるよ」がピッタリでした。
「助かるよ」ってどんな時に使われる言葉でしょうか。
ちょっと困っている状況で使われる言葉かと思いました。
ちょっと困っていて、
そこに手を差し伸べられたら
「助かったよ」
って言葉が出てくるなぁ。と。
ちょっと困っていたのは誰かなぁ。
と自問しました。
困っていたのは、
私の母でした。
私の母は忙しい人でした。
また、幼い子どもを亡くす(私の弟)
という悲劇にもあった人でした。
そんな母の迷惑にならないように
いろいろ察して「助けられるように」
なりたいって思っていたようです。
そして
「自分でできる」ことは
相手の手を煩わせないので
一番の
「母の助け」になる
と思っていたようです。
そのころの「小さいころの私」
に思いを馳せながら
観察を続けました。
すると
こんなことがわかりました。
実際に母の助けになる
ことよりも
「助かったよ」と言ってもらいたかったようです。
私の「助け」を受け取ってほしかったというか。
私は、母を助けることができる存在だと
褒めてほしかったというか。
では、
なぜ「助かったよ」と言ってもらいたかったのでしょうか。
そのころの私をイメージしてみると
「助かったよ」と言われた時
ものすごく甘美な感覚に襲われました。
ああ、こんなにも欲している、私・・・。
私の存在価値を実感する方法が
「助かったよ」と言ってもらうことだったのです。
「私は、母を助けることができる存在だ」
と感じることが
私の「存在価値」を感じる方法だったようです。
こんな健気な自分を感じると
自分がとても愛おしくなりました。
私はイメージの中で、
たくさん「助かったよ」と言ってもらうことにしました。
母にです。
「助かったよ」と言ってほしい私を慈しみました。
そして
母に「助かったよ」と
言ってもらいました。
とても心地よい時間をすごしました。
現実世界では、口を開けて
がりがりと歯石を取ってもらっていたのですが。
私がこのお仕事についた(セラピスト)理由も
母でした。
もちろん、はじめは母のためになんて
思っていませんでした。
しかし、
セラピストになって
セルフセラピーを重ねるうちに
「本当に助けたかったのは母だった」
ということに気づいてしまったのです。
セラピストあるあるかもしれません。
セラピストだけじゃなくて
対人援助職あるあるです。
看護師さんとか
介護士さんとか
人のお世話をする職業に多いです。
実は、本当に助けたかった人がいて
その投影(代理)として
今の職業を選んでいる。
「心理的防衛機制」という
心理システムの一つです。
でも、だからといって
「セラピストをやりたい気持ちは嘘だ」
というつもりはありません。
大事なことは
「防衛機制だ」
「投影だ」
「代理だ」
という一般化ですまさないことです。
それがどうした。
です。
わかりやすく名前をつけただけです。
それを癒していくのです。
今。
自分への理解を深め
自分と向き合うことためには
「具体化」です。
「一般化」ではありません。
ものわかりよく説明する必要はありません。
一言で説明できないのが「心」です。
ストーリーがあるのです。
オリジナルのストーリーが
語られる必要があるのです。
心の浮き沈み、波に沿った
ストーリが語られたとき
何かにつながります。
すると「お話(ストーリー)」が終焉を迎えるのです。
「考え過ぎ」
「認められたい」
「ずるい」
「うつだから」
「年だから」
「逃避」
これらは全部
「一般化」
自分への理解の
ゴールはここではありません。
その状況になったとき
どんな感覚になりますか?
似ている状況はありませんでしたか
何を欲していますか
そんなに欲する「理由」をわかってあげていますか
それはなんですか。
持っている本当の思いへ寄り添い、理解する。
本当の「思い」を持っている自分を許す。
ここがゴールです。
ということで
歯医者で、インナーチャイルドでした♪
セルフセラピーは
一度身に着けると
いつでもどこでもできるから
どんどん癒されていくし、楽になっていきますね。