もう10年以上オレンジ物語に来てくださっているクライアントさん(Aさん)がいるんですけど、先日セラピーにお越しくださったとき、お母さまが亡くなったとお聞きしました。
セラピーの中では、家族のお話はよくでてくるものです。Aさんからもお母さまのお話をたくさんお聞きしていました。そう、もう10年以上も。だからなのか、ただ、亡くなったご連絡をいただいた、という意味以上に、私にとっても、私の世界を構築している一人のメンバーがいなくなった感じがしました。
私は2年前に母を亡くしました。もう2年が経とうとしているとは思えません。ほんとついこの間のことのようです。そして、正直なところ、まだ母が亡くなったということにあまり実感が持てていません。
沖縄にいた母と、神奈川にいる私。神奈川に帰ってきたら、私の生活は何ら変わることはありません。だからでしょうか。まだ夢のように思える、そんな感覚があるんですね。
でも私はそんな感覚を大事にしています。そんな感覚を観察しています。苦しくはありません。愛おしくて切なくなる時はありますが。
年明けに、大学でともに学んだ同級生が亡くなった知らせをもらいました。びっくりしながらも、まるで夢のようです。仲間内で、お線香をあげに行きたいね ということになりました。その算段をつけるラインの中で、「でも、受け入れなきゃね」と誰かが言いました。「うん」と答えましたが、本当は「うん」と思っていませんでした。
受け入れきれなくてもいい って思っていました。例えば、私が母や友に抱いている想いは、果たして受け入れているのでしょうか。それとも受け入れていないのでしょうか。何をもって受け入れているというのでしょうか。
「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」(原題 The Power of Now)の著者エックハルトトールはこういいました。「苦しみは日々起こることに抗うことから生じる」といいました。
友の死を、現実だと思えない自分 それに抗わなくていいんだと思います。母の死が、まだ夢のようだと思う自分、 それに抗わなくていいんだと思います。母を失った直後、悲しみがまだ生々しく襲ってきたときでも、それに抗わず、存分にお別れを悲しんでいいんだと思います。
早く立ち直らなければ、早く受け入れなければ、周りに心配をかけないように、いつまでも落ち込んで前を向けないと思われないように・・・
そんな想いが頭の中をかけめぐるかもしれません。しかし、
何度でも何度でも、反芻するように悲しみを味わいたがる自分がいるのなら、それに抗わなくていいのだと思います。そして、ごはんを食べて、誰かと亡くなった方の話をして、トイレに行って、日記を書いたりして、寝て、そんなことをしていくうちに大切な方がいなくなった新しい世界をだいぶ歩いてきたことに気づくのでしょう。
たくさん、後悔していいんじゃないかなって思います。だって、どうやったって後悔するんですもの。あの時、もう少し早く気づいてあげられたら。こんなに終わりが早くやってくるんだったら時間を取ったのに。服を作ってあげたかった。おいしい物食べさせてあげたかった。痛烈な一言を浴びせてしまった。
悲しみが後悔に拍車をかけます。そんなことないよ。って言ってあげてもいいけれど、私はね、存分に後悔させてあげたらいいって思います。自分を嘆く叫びを、自分が聞いてあげたらいいって思います。誰かが、後悔を表現しているのなら、聞いてあげたらいいって思います。
後悔の言葉が出てくるってことは、少しだけ、そんな自分を許しているからでてくるのです。その後悔がひどすぎて、言葉にすると身を亡ぼすほどの辛さを感じている時は、言葉にすらできないものです。
だから、後悔の言葉が出てきているのだったら、その言い分をね、情けない自分をね、聞いてあげたいなって思うのです。自分のをね。
後悔して、嘆いて、悲しんでいる姿は、許しの姿ですらあるのです。
ここ数年、お年頃もあるのですが、身近な人の死をまじかに見ることが増えました。先月、キネシオロジーの師匠がロスから来日していたので、お話会&デモに行ってきたのですが、その時も、「死」がテーマの事例がたくさん出されていました。
「死」がテーマな時期なのかもしれませんね。
先日、沖縄で、娘の短期合宿のために読谷村へ行く道を運転していました。毎日送り迎えが必要なので、4日間、送迎で4往復しました。一日目、初めての日、これは、昔、家族で走った道だということに気づいて胸が締め付けられました。
あの時私は、後部座席で、父と母が前、隣に姉がいました。どこか良いところもレストランに行った気がします。それが思い出されました。今では私が運転して、しかも隣に娘が座っている。という以前との違いに時の流れを感じて、なつかしさでもいっぱいになりました。
しかし、4日目には、読谷までの道は、もう自分の道になっていました。何度もその道を通ることで、「上書き」がされたのです。 娘を合宿に連れていくための道 と上書きされてしまいました。切なさはどこへやら。
まだまだ沖縄のあちらこちらに、家族で出かけた道があります。まだ上書きされていない道があったら、また思い出して切なくなるのでしょう。近くのスーパーとびっくりドンキーまでの道はすっかり私と娘の道になりましたが。